岩根山・善水寺などについて
岩根山
善水寺の山号にもなっている岩根山は、通称十二坊山と言われているが、かつては嶽、甲賀山とも呼ばれていた。
医王山
本堂北側の山を医王山という。医王とは薬師如来のことである。
十二坊
当山古記によると、善水寺山内を三尾に分け、本堂を中心とする『中尾』、東側清涼山を『東尾』、西側十二坊山を『西尾』と称し、山内には一時二十六の坊舎があったという。坊舎とは僧侶の住居のことで、一坊には数名の者が生活をし、二十六坊があった往時、全山では数十名からあるいは百名を超えるほどの僧侶が在住したと思われる。
十二坊とは、善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊。
百伝の池
ももつてのいけと読む。別名を賀茂池、また岩根の池という。この池水が善水の元水となった。
本堂再建
前身の本堂は延文5年(1360)に近くの中の坊より出火、延焼により焼失してしまったが足かけ7年の歳月をもって現在の本堂は再建された。堂内の仏尊は運び出され、再建の後もとに戻された.
元亀の法難
元亀2年(1571)9月12日比叡山を焼き討ちした信長軍は、その3日後、9月15日に当山善水寺を焼き討ちした。
本堂、塔、仁王門、六所権現社の四棟は焼討ちよりのがれたが、現在は国宝の本堂のみが焼討ち以前の建造物である。
雨乞いの道
本堂西側、歴代墓地より尾根筋を登り、医王山の壺、医王山頂上をとおり東進、かみなり岩より行者堂、百伝の池に至る行程二十分ほどの道である。本尊薬師如来を常に右に見る、いわゆる右遶行道(うにょうぎょうどう)の意味からも右回りが順行、左回りが逆行である。
また、以前は実際に日照りが続き水不足になると、地元の子どもたちが医王山とかみなり岩に分かれて雨乞いの唄をうたったという。