本堂安置
本尊薬師如来座像
一躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。
現在、重要文化財指定。
明治39年修理に際し胎内より多量の稲籾と正暦4年(993)の年号が記された、結縁校名記が見つかった。
平成13年、奉安より1008年、52年ぶりに御開帳大法要が奉修された。
当山では、秘仏本尊の御開帳は不定期なため、何年に一度とは決まっておらず次回の御開帳予定は未定。
平成17年秋、京都国立博物館、平成18年春、東京国立博物館にて、天台宗開宗1200年記念「最澄と天台の美術」展に出展、初めての寺外での公開であった。
梵天立像・帝釈天立像
二躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と共に一具像としてお祀りされた。
画像は、左から<梵天立像><帝釈天立像>です。
四天王
四天王立像 広目天・多聞天
四天王立像 増長天・持国天
四躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と共に一具像として造像され、本堂須弥壇上本尊厨子両脇に
二躯ずつお祀りされている。1000年を経てもなお、彩色文様が大変良く残っている。
不動明王座像
一躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と共に一具像としてお祀りされた。
滋賀県内最古の不動明王である。
兜跋毘沙門天立像
一躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と共に一具像としてお祀りされた。
大地の女神地天に支えられた姿で、ほぼ平安期に限られて像造された。
僧形文殊菩薩座像
一躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
通常文殊菩薩は、獅子に乗る菩薩形で現されるが、この尊像は僧侶の姿である。
かつて、比叡山では根本中堂をはじめ、諸堂それぞれに奉安されていたことからも、天台宗としては大変重要な意味があるが、現在伝えられている僧形文殊像は極端に少なく、県内では唯一、国指定の尊像は、全国でも当山像を含め3例のみである。
※以上本尊薬師如来をはじめとする十躯の一具像は、正暦年間の頃の比叡山根本中堂諸尊を模刻し当山に奉安されたもので、平安期の根本中堂の様子を伝える全国唯一の一具像である。
金剛力士像
二躯 平安時代。
明治37年、国宝指定。現在、重要文化財指定。
本尊薬師如来と同時期に造像された。
旧仁王門に奉安された仁王像である。平安期の仁王像は全国で五例が国指定の文化財であり県内では唯一である。
仁王門は昭和28年の大雨により流失したが、仁王像はそれ以前に本堂に移されていたため無事難を逃れた。
当初の仁王門は、二階立の楼門形式と思われ、仁王像が天衣を含めると3メートルを超える姿であるので、巨大な仁王門であったと思われる。
金銅誕生釈迦仏立像
一躯 銅像鍍金。
天平時代明治37年、国宝。現在、重要文化財指定。
像高23cmほどの金銅仏で、花祭り潅仏会の本尊である。同じく天平時代の東大寺国宝像(像高47cm)との密接な関係があったと思われる。
平素は、非公開ですが毎年5月5日の花祭り潅仏会にあわせ1週間ほど公開します。
平成20年は4月29日~5月5日まで公開します。
阿弥陀如来
一躯 鎌倉時代、元久3年(1206)。昭和32年、滋賀県指定文化財。
いわゆる善光寺式の阿弥陀如来で、善光寺如来といわれる。信州善光寺本尊を本とし、鎌倉時代以降多くの姿が造像され各地に祀られ寺院となった。今日全国には俗称を含め二百数十の善光寺が在るが、善光寺本尊の御分身がお祀りされていると思われる。当山像は、これらご分身像のなかでも極初期のお姿で、甲斐善光寺像、建久6年(1195)在銘に次いでの古像である。
十二神将
一躯 鎌倉時代、元久3年(1206)。昭和32年、滋賀県指定文化財。
薬師如来の眷属にして薬師如来を信仰する私たちを守護する12人の大将で、それぞれの下には7,000の部下が居るという。
未だ修理が手付かずのため、手足等もとれ痛々しいお姿となっている。寅神将の墨書はたまたま後頭部が外れてしまったためである。当山では一日も早く十二神将の修復ができます様、広く皆様よりのご寄進をお願いしております。
十二神将
十二躯 鎌倉時代、文永9年(1272)。平成14年、湖南市指定文化財。
薬師如来の眷属にして薬師如来を信仰する私たちを守護する12人の大将で、それぞれの下には7,000の部下が居るという。
未だ修理が手付かずのため、手足等もとれ痛々しいお姿となっている。寅神将の墨書はたまたま後頭部が外れてしまったためである。
当山では一日も早く十二神将の修復ができます様、広く皆様よりのご寄進をお願いしております。
釈迦如来
一躯 鎌倉時代。
坐像の釈迦如来で身の丈1.4mいわゆる半丈六の大きさである本堂外の別堂に安置されていたもので、あるいは三重塔にお祀りされていたとも考えられる。
聖観世音菩薩
一躯 鎌倉時代。
釈迦如来とほぼ同じ大きさの半丈六像で、釈迦如来とは足の組み方が逆の密教像である。現在の観音堂とは別に境内に観音堂があったと思われる。
観音堂安置
聖観世音菩薩
一躯 藤原時代。平成14年、湖南市指定文化財。
身の丈2.5mを超えるいわゆる丈六像である。丈六像とは立像の場合、一丈六尺即ち4.8mほどの大きさを云う。坐像の場合、その高さは二分の一である。
現在地の観音堂は江戸時代中期元禄9年(1696)中尾岩蔵坊の旧跡に建てられたもので、元は東尾の清涼山におまつりされていたお姿である。
江戸時代元禄5年(1692)厚善代本尊御開帳に際し、江戸光岸寺行譽上人、弟子乗蓮と共に来山、乗蓮比丘は本尊裏堂にて尊像の破壊している姿を歎き、修復を発願し各地を勧進したものである。
磨崖仏
不動明王
室町時代、文亀3年(1503)。
観音堂の東側にある巨大な一枚岩の北面の高いところに彫られている。
地蔵菩薩
地蔵堂の北側に意志に彫られているもので、砂かけ地蔵と呼ばれている。
阿弥陀如来
本坂、仁王門跡の北側に彫られている。